酒害体験談

家族には決して余計な人間は一人もいない

発表者 A・K
所属 江東断酒会・家族

 皆さんこんにちは!
 江東断酒会のAと申します。
 このような機会を与えて頂き大変感謝しております。今日は家族の立場として体験談を話させて頂きます。
 主人と一緒になり来年で三十年になります。当初嫁いだ時は、主人の両親と子姑と主人、私の五人生活から始まり、やがて二人の子供長男長女をもうけました。私の所は自営業で空調関係の仕事を親子でやり、私は経理をしていました。私も商人の生まれですので特に抵抗なく生活をしていました。
 主人も大学卒業後この仕事に三十年以上携わり、おじいちゃん(舅)という人は、明治生まれで仕事に対してとても厳しい人でしたが、八十八歳まで上手にお酒を飲んでいました。おばあちゃん(お姑)という人は、五十年近く糖尿病を患い、その中十年余り透析し、壊疽で足を切断し義足まで作り病院の送り迎えを私達夫婦でしていました。
 そんな中、今から十年以上前から少しずつ主人の飲み方がおかしいと感じてはいましたが、家族に迷惑をかける程ではありませでした。五年前に化膿性脊髄炎で入院、次の日直ぐ手術し、もうこの頃からあまりの痛さにお酒は随分進んでいました。私は入院したことがいいチャンスだと思い、直ぐそこの医療相談に行き、お酒の相談をしたところ保健所を教えて頂き、すぐ保健所に行きましたが、何故か自分が今悩んでいることが中々話せませんでした。
 丁度その年が最悪な年で、一月に私が交通事故に合い、二月におばあちゃんが他界し、九月から十二月まで主人が入院、その間十一月に息子が入院、十二月に寝たきりのおじいちゃんが入院で、病院の掛け持ちをしていた頃やっと主人が退院してきましたが、あくる年の一月に娘の具合が悪くなり、私にとって最悪の年でした。でも主人が退院して一年位はお酒も飲まず治療に専念し、私は寝たきりのおじいちゃんをずっと見ていたので、少し保健所からも遠のいていました。
 そんな頃、今から丁度四年前(入会する一年前)十月におじいちゃんが他界したのをきっかけに、主人はまたお酒に手を出すようになりました。そんな主人を見ながらも私はパートに出ていましたが、主人は当然仕事が出来る状態ではないため一人になる時間が長く、段々とお酒のとりこになっていきました。私が仕事から帰ってくると嫌な主人の姿を多く見るようになり、保健所に再び行き始め、そこにうらべ先生が来ていましたので先生の病院に私が先に繋がりました。そこで私はカウンセリングをして頂きました。入会する一年前の出来事です。一時間半位自分がやってきた怖い行動を話し始めました。酔っている主人の首に手を・・・、でも直ぐに我に返りその場は何もなくおさまったこと。やがてお酒がどんどん進み子供達をも巻き込み、私は子供が手を出すなら私が先に手を出そうと思い込んでいた頃、とうとうその時が来てしまいました。
 布団の上で泥酔状態にいる主人を見て、私は我慢が出来ず部屋にあった短い棒と長い棒を持ち、主人の前で仁王立ちになりました。この時は本当に弱い人間が強い人間に向かっていくことがどんなに恐ろしいか、どんなに怖いことか考えず、私は無我夢中で座っていた主人を見ながら・・(凄まじい修羅場がありました)。『あんたなんか生きている資格ないわよ』、『あんたなんか死んだほうがいいのよ』。その時ふっと「私の心はこの人の存在をなくすために立ち上がったのではない、本当はどうにかしたい、でもどうにもならない」そんな自分の葛藤がありました。また、『ああこれで私はこの人と別れられる、別々になれる』と思う反面、もう一人の自分『ここまでしなくても早く別れればいいのに』と言っている自分がいました。もう私自身の葛藤の中で怖くて怖くてしょうがなかった。これも自分なんだと思っていました。
 この事を全部カウンセリングしている時に涙で肩を震わせながら話しました。すると先生が「そんなに追い込まれていたのですね」「家族が巻き込まれていたのですね」と言われた時、「あっ!そうなのか、私は追い込まれていたんだ」そうだったのかとお思い、「こんな泣きながら話しても分かってくれる人がいるんだ」と思って少しホッとしました。それから少しして先生に「来週また来て下さい」と言われ、一週間後に行き、またカウンセリングをして頂きました。その日も一時間位話しました。「随分落ち着きましたね」と言われた時も涙が止まらず、でも話が伝わったことに私は少し元気を貰って帰りました。その後主人がうらべ先生に繋がり先生から断酒会を教えて頂きました。
 丁度三年前の十二月江東第一例会に二人で出席しました。(この頃からは皆さんご存知かなあと思います)主人は杖をつきながらの参加でした。座ったら立てるのか、立ったら座れるのかとても心配しながらの出席で、散々だまされてきた私は、この会に来てもまだ「二度と人を信じまい」という気持ちがあり、その思いの中でもあまりにも皆さんが明るく元気で素直に自分の気持ちを話しているのを聞いて、私自身も反省し自分のイメージとはまったく違った断酒会だったので、色々と考えながら帰りました。次は江東第二例会に出席しここで入会しました。二〜三ヶ月は江東だけ回っていましたが、やがて主人も杖が取れてきた頃、私は皆さんの話を聞いているうちに「やっと人を信じてみよう!」と気付いた時から、何故か肩の荷が軽くなったような、そして一歩出たような気がしました。
 その頃保健所に通っていた私は、家族は一段でも二段でも本人より先に上がりなさいと言われていましたので、墨田さん、千代田さん、江戸川さんと近い所を一人で回っていました。段々主人も一緒に回ってくれるようになり、二人で一緒に歩いたこともない私達が主人の腕を取ったり、ベルトをもったり本当に周りも気にせず例会回りしていました。会に出ますと皆さんからよく「シアナマイド」という言葉を聞き、そのことすら分からない私達は、うらべ先生に「シアナマイド」の話を聞いたところ、「ご主人は体力が無いので出せません。もし出してお酒を飲んだら命もっていかれます」とハッキリ言われ、当の本人も薬を飲む気もありませんでしたので、私は仕事を辞め、それから私の『歩くシアナマイド』が始まりました。勿論今でも続いています。
 昨年は脳梗塞を患い言語障害、歩行障害、誤嚥と一時はどうなるかと思い込み、私自身も体調を崩し本当にあせりましたが、仲間の方々、会の方々に随分支えて頂きました。今年の二月には潰瘍性大腸炎になり、一ヶ月ちょっと入院、この時も仲間の方々にとても心配して頂き何とかここまでこられました。本当に感謝しております。
 この会があったからこそ、今私達家族はバラバラにならず、そしてこれからも仲間を大事にして飲まない姿を会の方々や子供達に見せていきたいと思います。そのためには、私も惜しむことなく今頑張っている主人をサポートしていきたいと思います。
 最後に一言
 私は『家族には決して余計な人間は一人もいない』と信じ、これからも一歩一歩進んで行けるよう、そしてこの会から離れないよう頑張っていきたいと思います。本日は本当に有難う御座いました。