酒害体験談

断酒を続けてえられた評価

発表者 A・H
所属 練馬断酒会

 断酒会に入会して今年で八年になります。断酒を続けることによって社会復帰することができ、平穏な生活を取り戻すことが出来ました。仕事も日々悩みながらではありますがなんとかこなしており、評価されるまでになりました。
 断酒する前の私の生活はかなり異常でした。仕事に行き詰って酒に逃げ、自殺未遂、当時小学生の子供二人と妻を棄てて二度の家出、最後にはアルコール依存症による医療保護入院。私の仕事は漫画家です。これら自分の体験をつつみ隠さず漫画にして出版して貰いました。「失踪日記」という本です。この作品は望外に好意的な批評を受け幾つかの賞も戴きました。断酒会の先輩の方々が私と同じ依存症という病をかかえながらも明るく日常を生活していることに勇気づけられ、少しでも見習いたいと思い酒の誘惑と戦って仕事をしてきた結果だと思っています。
 私はギャグ漫画という読者の方々に笑って貰えるような漫画を長く描いてきました。読者には楽しんで頂いているようですが作者である私は漫画を描いていて楽しかったことなど一度もありません。どうやって読者を笑わせるか、考え続けるのは苦しみ以外の何ものでもありません。ある時とうとう私は壊れてしまい仕事を放り出し、原稿を落してしましました。もう漫画はやめようと思って、他の雑誌の仕事も全部やめました。周囲の人達には休養、充電と公言していましたが、実際は何もかも嫌になり酒びたりの毎日でした。もともと躁鬱体質で、この頃からうつが重くなり、仕事が出来ない自分が嫌で酒に逃げていたのだと思います。
 毎日昼頃起きて仕事場に出かけ、仕事場では一人でしたのですぐ酒です。飲んで寝て夕方に起き、帰宅して夕食とともにまた飲み始め寝るという生活が一年程続きました。仕事をしてないので生活費にも困り酒を買う金も無くなくなりました。私はもう死んで終わりにしようと思い、家出をして雑木林で最後の酒を飲み首吊り自殺を試みましたが、翌朝二日酔いで目覚めてしまいました。その時はもはや死ぬ気力は残っておらず水が一杯飲みたいという思いだけでした。十一月後半の頃でしたので、寒さとおそらく酒の離脱症状でしょうか一週間ぐらいは眠れない日が続きました。お金は無いので勿論お酒は買えません。気がつくと私はゴミ袋をあさるホームレスになっていました。必然的に断酒生活をしていました。保護されるまで三ヶ月半ホームレスをしていて感じたことは、意外とこの孤独と自由が自分に合っているということです。勿論、家族には申し訳ないという気持ちで一杯でしたが。
 くせになったのか一年後またうつと自殺念慮に苦しめられ家出し、死に場所を探しているうちに、何故かまたホームレスをやっていました。前の時と違っていたのは途中からガス配管工の仕事をするようになったことです。仕事後には酒も飲みましたが、次の日の仕事にさしつかえないよう日本酒三合ぐらいでした。私の問題飲酒がぶり返すのは、捜索願いが出されて家族に迎えられ、家から通っていた配管工の仕事をトラブルで辞め、再び漫画家に戻ってからのことです。
 四十三歳からまた漫画を描き始め、わりと順調にこなしていました。妻からは家出だけはやめてくれと硬く約束させられましたので、仕事の苦しさとうつは酒で紛らわしていました。酒量は上がり五年たった時には立派なアル中になっていました。手の震えから始まり、不眠、寝汗、黄疸が出て、食欲が無くなり、やがて肝臓が限界をむかえるまで一直線です。手の震えの時困ったのは仕事である線が描けなくなったことです。一杯飲んで描くのですが、今度は酒を飲む手が止まりません。結局仕事中飲み続けることになるのです。絵は荒れて酷い作品になってしまいました。私の描く作品の荒れを見限られたのか連載の仕事は終わり、飛び込みのイラストの仕事もあまりの不出来に没にされました。
 ある時二日酔いのむかえ酒をいつものように飲みましたが、どうしても胃が受け付けません。飲んでは吐きで三日間眠れません。そして幻覚が出ました。三日飲んでいないのでもう大丈夫だろうと酒を買いに行ったのですが、やけに車のエンジン音、人の話し声が神経に刺さるようでドキドキします。突然「恐ろしい」という考えが膨らんできて、人や車や街が自分に襲いかかってくるような恐怖にとらわれ、自分はこのままでは発狂すると確信しました。他人が恐ろしいので、遠い自販機のある場所にたどりついてワンカップを飲むまで、私の頭の中では「狂う狂う」という言葉が渦巻いていました。二度と経験したくない出来事です。
 暫くしてあまりにも酷い私の狂態ぶりに家族も手の打ちようがなかったのでしょう、息子と妻に取り押さえられ三鷹の長谷川病院に保護入院となりました。そのころ飲んでは自殺未遂を繰り返していた私は疲れ果てていて正直少しホッとしました。入院の時かなり暴れたので手足の拘束というものを初めて経験しましたが、あれ程精神的に苦しめられるものはありません、イヤな思い出です。
 長谷川病院は教育プログラムがしっかり組まれていて、アルコール依存症の怖さを教えてくれました。ドクターに言われた「ぬか漬けのきゅうりは二度と生のきゅうりには戻れない」の言葉は今でも心に強く残っています。またアルコール依存症は回復はするが不治の病であり、断酒するか飲んで死ぬか道は二つしかないと聞かされた時は絶望感に襲われました。様々な場面で多くの方の体験談を聞き大変勉強になりました。私の体験など生ぬるいものです。依存症の方は断酒さえしていれば、極めて常識的な社会人であることを認識しましたし、尊敬できる方にも沢山出会えて充実した入院生活だったと思います。退院後についてどこに入るかで悩みましたが、入院中見学に寄った練馬断酒会の家族的な温かい雰囲気に癒される思いがしましたので入会しました。以来八年間先輩方のアドバイス、励ましに支えられ今日までやってこられました。皆様のお陰と感謝しております。
 断酒会会員の会員証を持っていることは私の自慢です。一年一年昇段していくのを会報に載せて頂くのは励みになります。時には仕事が上手くいかず自暴自棄になりかけたこともありましたが、断酒を続けた結果が社会的評価にも繋がりました。物を描く人間としてこれからも自分の体験を作品にし、酒害の怖さを訴え、アルコール依存からの回復は必ず出来るということを伝えたいと思っています。
 また私自身もまだまだ断酒に関しましては若輩者ですので、自戒して緒先輩方のお話を襟を正して素直に拝聴して断酒継続していきたいと思っています。今後とも宜しくお願い致します。