酒害体験談

今を生きる

発表者 F・M
所属 練馬断酒会

 去る四月二十七日の本部例会で断酒三十一年目の賞状を頂いたが、本当に時の流れの早さには驚かされる。飲酒していた状態があたかも昨日の様な感じである。どうしてあの様な大量飲酒をしてきたのか自分でもその原因が不明である。入会するまでは自分のアルコール中毒を認めていなかったし、マナーがそんなに悪いとも思っていなかった。冷静な第三者に言わせると大変な酒乱とのことである。そこで私は自分を認めることの難しさを改めて感じた。
 世の中で一番分からないのは自分自身であると思う。従ってこの三十一年間は自分探しの旅でもあった。昔のことになるがフランス映画で「ジギルとハイド」という映画を見たことがあった。大分記憶が薄れたが、一人の人間の心の葛藤で昼は善良な大学教授で夜は巨悪な強盗である。善人と悪人の二重性を持っていることを画いている。我々酒害者もこの様な二重性を各自が持っていると考えられる。
 私は長い間断酒して思うのだが、アルコール依存者は性格ではなくて体質に問題がある様に感ずる。断酒している人は本当は穏やかで心優しく、義理人情にも溢れている。私は酒を飲んで暴れたが、その当時の飲友達は大部分死んでいる。私の酒乱を記憶している人も段々少なくなってきた。お陰様で悪運の強い私は未だ健在である。
 私は三十七、八才の頃から乱れ酒になり、毎日深夜まで飲んでいた。アルコールに関する知識がないので中毒症状になっているとは思ってもいなかった。酒の切れている時は実によく仕事をやっていたと思う。
 四十一才の頃、家内が新聞広告で断酒会を知り、早速電話をして文京区の礫泉会館の例会に初めて連れていかれた。それが第一回目の入会である。そこで杉並区のMさんに紹介された国立久里浜病院で診察を受けた。入院するには症状が軽いとのことで帰宅した。その頃私の会社では転勤があり歓迎会でまた飲んでしまって、例会通いも出来ず自然退会となった。
 その後約八年間の飲酒生活で症状が段々悪化していった。それでも自分はアルコール中毒とは認めていなかった。無知程恐ろしいものはない。その間糖尿病は併発するし、視力は低下するし、仕事もうまくいかず、只管(ひたすら)酒を求めていた。今当時を思い出せば地獄の生活であった。人間は壁に突き当たらないと己の非に気がつかないものだ。破局を迎えたのは自己嫌悪感から多年勤めた会社を退社したことである。そして親類の会社へ勤めたが、アルコール中毒の身ゆえ一年六ケ月位で退職してしまった。その結果やっと自分は何物であるかを知った次第である。
 家では当然離婚話が毎日出るし、完全な敗北感で身の置き所にも困っていた。そして協議の上再度断酒会へ入会することを条件として再出発することとなった。
 第二回目の入会が昭和五十一年四月で心も身もボロボロの状態であったが、背水の陣で例会出席に励んだので一度も失敗することがなく断酒継続することが出来た。誠に有り難いことである。第一回目の入院後の失敗で懲りたので先輩にならって多くの例会へ出席をした。そして大勢の仲間が出来たのも非常に良かった。大きな代償を払ってやっと心の安堵感を得ることが出来た。
 私の断酒会への感謝の気持ちは何年たっても変らない。断酒会なかりせば今頃は野たれ死をしていたと思う。春になり桜の花も散り、“ゆずりは”の葉も大きくなった。自然界の循環は年々繰り返すが、我々の例会回りには変りはない。この難しい断酒継続には大きな決意が必要であると思う。