酒害体験談

今私は孫以下

発表者 S・T
所属 江東断酒会

 二十一年前、呑んでいる頃は従順だった。「止めるから、もう一ぱい」家内は嘘と知りつつ信じたいがために従った。そんな家内がある日「もう貴方の言うことは何も信じない。医者に行くのか断酒会に入会するのか」体力気力の限界にあり医者=入院は絶対いやな私は入会を選んだ。
 そもそも専門病院も断酒会も知らなかった私は、断酒会とは会員が定期的に集まり断酒していることを報告する。それぞれの人が目標をたて、その目的が完全達成できた暁には卒業。そんな夢の会であった。まさか私が依存症で一生治らない病で卒業のないこと。私は荒れた、隠れて飲んだ、それでも何故か会場に足を向けた。家内は毎夜不在、私には会場しか居場所がなかった。一方家内は入会と同時に会場巡り、飲むなら飲め断酒会を信じる決意の表明であり、結婚以来初めての反抗であり挑戦であった。
 しぶしぶ会場に足を運ぶうち例会が楽しくなった。東京の全ての会場を回ってみたくなった。自分に対する興味、依存症に対する興味、不思議と飲酒欲求はほとんどなくなっていた。会社が終ってからの会場回りは八時過ぎ、時には会長に交じっての体験談。会社から近い会場も見つかり断友も出来た。「遠くからよくいらっしゃいました、江東の方ですか」もう止まらない。出席が増すのと比例するよう話はうける。高円寺に会社のあった私の行きやすい会場には江東の会員も家内もいなかった、好き勝手な話をしていた。家に帰ると「ごくろうさん」家族が温かく迎えてくれる、これが人生だ。家内は優しかった、例会に出てさえいれば優しかった。もし逆らうと断酒会に出るのをぐずった「誰の為に出ているのだ」。赤面の極みである。
 例会の話も体験談よりうける話、笑いを取れる話、攻撃的な話が多くなってきた。数年たったそんなある頃ある御夫人から「入会後飲酒されたことはありますか」「何故そんなこと聞くのですか、飲んでしまったのですか(私は入会後の飲酒記憶はほとんど無かった)」「奥さんが例会で主人は入会の頃飲んでいましたと話しておられたから」。頭の中は真っ白、一刻も早く家に帰り罵声をあびせ、何故自分に話してからにしなかった、何故だ何故だ。途中帰宅を思いとどまったのは数年の例会出席だと思う。もしあの時怒りにまかせ帰宅していたら、たぶん今の私はないと思う。その頃の私は仕事のこと、家のこと、全ての問題事は例会場で答えを出していた。
 そんなことがあって家内は少し強くなった。この人は断酒会につながった、先のことは分らないが今はつながったと確信した。前は同席の例会ではほとんど話さなかった家内が話すようになった。何を話されるのかびくびくする例会回りが始まった。今では再飲酒の方の話も我が体験談として聞くことができ断酒継続に大変役立っています。感謝。さらに進化する家内は、私の話に異説をとなえる。赤と言えば白、白と言えばいや黒だ。自説は曲げないまるで当時の私である。口やかましくなった、私を子供扱いする、ハンカチは持ったのか。子供扱いなら我慢もできる。歳のせいか口元がだらしなくよく食べ物を落とす。孫の家に遊びに行った食事時「また落としてしまった(うけをねらって)、Y人(孫二才)と同じだね」すかさず家内と娘が「Y人以下です」これが私の二十一年の成果。