酒害体験談

四十年を振り返って

発表者 E・T
所属 板橋断酒会

 私の過去を振り返りますと、いろいろと沢山の思い出が浮かんできます。そこで私は思いついた、その儘の事を素直に筆を取りたいと思います。
 断酒会に入会した四十二歳の頃は、なかなか元気で、活発で、そして熱の入った断酒活動でした。昭和四十年代当時の頃は、勿論医療設備、専門のアルコール病院、ケースワーカー等総てがありませんでした。断酒会の初期の頃でした。例会出席人数も二十名〜三十名位でした。会場といえば適当な場所もなく、お寺の境内、幼稚園の小さな教室等…その様な会場でも皆さん熱心に例会出席しておりました。なかには「うちのお父さんを助けて下さい」とハンカチで涙をふきふき語り合ったこともありました。これも発足当時の例会模様で、懐かしい思い出の一ページとして皆さんに、ご紹介したいと思います。
 私も板橋支部を昭和四十五年八月に、会員の人達と共に発足させ、育成に努めました。当時の支部長はなかなか多忙な仕事で、例会の“会場”とり、“会計”、“会員の皆様のお世話”、“新入会員の酒害相談”等総て一人でやらなければなりません。しかし、その後努力の甲斐あって、支部自体も盛り上がりを見せ、会員数も次第に増えてきました。
 昭和61年2月16日には「61年度東京断酒新生会研修会」を“初心に、今一度”と題して208名もの多数の会員・ご家族の参加を頂き、板橋支部担当で行うことが出来ました。
 ここで世間からの断酒会の見方を紹介してみましょう。それは決して良いとは言えませんでした。「自分勝手に好きで飲んで、家庭を困らせて、今更なんだ」という風潮があったからです。事実その通りだと、私も思います。しかし、それから四十年程過ぎた現在、断酒会の皆さんの努力の甲斐あって、世間から認められる様になり、社会人として立派に巣立っています。
 昭和42年12月13日、私達夫婦と他二組のご夫婦、計六名で初めてTVに出演しました。フジTV“小川宏ショー”全国放送です。なかなか度胸のいることなので、始めは辞退しましたが、意を決して出演しました。(放送の内容は長くなりますので“カット”させて頂きます。)私の断酒はそれを境に完全断酒に踏み切りました。それから昭和42年〜44年年頃にかけて、TV局や新聞社等が断酒活動を紹介し始めました。
 断酒会も次第に発展し、人数も増えて、昭和61年4月1日をもって支部が“断酒会”と呼号変更し、各支部長がその後“断酒会長”と改まることになりました。
 平成になった現在の断酒会は、“会のあり方”、“会の運営”その他総て近代化され、また美しい会になり、社会に広く認められる様になりました。
ところで私もいつまでも“古い話”、“昔の話”ばかり言っていると、新しい会員の皆さんに置いていかれますので、この辺で頭を切り替えて、新しい断酒活動に専念しなければいけないと思っています。
 まだまだ頑張りますので、よろしく……。
 私が四十年という長い間、断酒が出来たということは、皆様のお陰と心から感謝致しております。
 “最後に断酒会の発展を心よりお祈り致します”