酒害体験談

断酒四半世紀

発表者 O・T
所属 京王断酒会

 昭和五十七年六月七日の夜、京王線府中駅で酔つぶれていて、府中市内の内科の病院に救急車で運ばれた。だいぶ暴れたらしいが覚えていない。三年連続で酒が原因での入院になるので入院は出来ないと考え、次の日の朝六時に看護婦さんに黙って病院を抜け出して、一度家に帰って着替えて会社に行くつもりでいたが、外に出ると酒が飲みたくて、駅前の酒屋の自動販売機でワンカップを飲んでしまった。
 家の近くの公園まで来て、会社に行けない、家に帰れない状態になって公園のベンチで買ってきた酒を飲み、その内に眠ってしまった。誰かに起こされて気が付いたら、おまわりさんが二人立っていた。パトカーに乗せられ病院に連れ戻された。黙って病院を抜け出したので病院では大騒ぎだったらしい。担当の看護婦に迷惑をかけた。
 弟が病院に来て京王線の聖跡桜ヶ丘にある精神病院に入院させるので入院手続きをしてきたと言われた。とうとう精神病院かと思った。精神病院には行きたくないので断酒会に行くと言ったが、勿論酒を止める気はなかった。そして六月二十日の京王支部の例会に弟と行って入会した。当時の支部長から、都内で毎日例会を行っているので出るように言われ、大変な所に入ったと後悔した。病院に帰ってきてから、これでもう酒が飲めないのかと絶望感が沸いてきた。
 結局桜ヶ丘病院には行かず、国立武蔵療養所に紹介されて弟に連れられて外来に行った。そこで医師から“アルコール依存症”と診断された。それでも酒を止める気持ちはなかった。内科の病院を退院したらまた飲むつもりでいた。入院中から世田谷の例会に一人で行き、例会に出る気持ちになった。退院後すぐ復職してしばらくの間毎日例会に通った。
 同期の仲間に恵まれ、断酒継続の力になった。その仲間も年月が経つと一人亡くなり、また一人と減っていき、十八段目からは一人で本部例会で賞状を頂くようになった。それと私の場合、職場の仲間の協力も忘れられません。酒の席に出ても私に酒を飲ませない様に気を使ってくれました。約八年近く仕事の関係で例会に出られない時期がありましたが、その間母の入院で一人暮らしになったり、職場配転になったり、仕事上でイジメにあったり、酒に手を出してもおかしくない状態の時もあったが、乗り切ることが出来ました。断酒会を辞めなくて良かったと思っています。
 平成十二年四月定年退職をして再び例会に出て断酒を続けております。もしあの時断酒会に出会っていなかったら、武蔵野先生から言われた“五十歳までに死ぬ”が現実になっていたと思っています。私の様な飲み方をしていたらおそらく四十五歳前後で生命を取られていたでしょう。アルコール依存症の知識は全くありませんでしたが、それを教えてくれたのは断酒会の皆様でした。アルコール依存症は生命を取られる本当に怖い病気です。止めるつもりがなかった酒が二十五年止めてこられたのは正に夢の様です。これからも断酒を続けていきたいと思っております。