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月〜土 10:00〜16:00
(第1日曜日 13:00〜16:00)
昨年十二月の本部例会では、二枚目のお免状を頂き有難うございました。酒は高校卒業後、和菓子職人の仕事に就き覚えました。初めは一杯のビールもやっと飲んだ状態でしたが、日々親方から誘われ修業の一環だと思い付き合い、それで仕事も教えてくれるならと二、三軒行く時も多々ありました。でも下働きの三年間でもあり住み込み生活。朝は五時から下準備を始め、冬などは冷たい水、むし機も同時に起動するので換気扇も回り寒く辛い日々でした。
一軒の店だけだと他の菓子も覚えられないので二〜三年単位で移りました。が、やはり行く先々には酒を飲む方はいて、二十四歳頃が一番楽しく飲み、また同年代(ガソリンスタンド、商店街の方々)など飲み仲間も多く、知り合いになり酒を飲める自分がいました。その頃の仕事は朝七時〜十六時で、仕事が終わり銭湯に行ってから仲間の集まる店へ行き、まずは生ビール!。そのうち何人かの人と飲み始め、水割りへと酒をかえ、その店で過ごしてしまうこともあったが、他のスナック、パブへとハシゴすることも、ほぼ毎日でした。明け方の五時まで飲んで帰ってきて、二時間後には仕事。アパートから職場まで五分でしたが、目を閉じたら寝てしまうので起きていて仕事に行きました。目を真っ赤にして酒の臭いをさせながら入ると、社長が昨夜も遅くまで飲んでいたのか!と。
飲んだ上には仕事は失敗出来ないという気持ちがありました。売れない品物でもあればクビになっていたでしょう。ある時、自分のチーフが病気で数ヶ月休んでしまい、自分と年下の見習いの彼と二人になってしまいました。社長も手伝ってはくれましたが閉店後は自分が任され一人残って残業。二十二時頃になる日もあったが、やはり一杯飲みたいと、いつもの店に顔を出し、声が掛かるとハシゴもしました。
その職場で一年位が経った頃、奥さんになる人との出会いがあり、付き合い始めました。彼女と飲みに行くこともあり、「結婚」へと話が進み、経済的なことから新たに職場を替わり、新しい生活が始まり二人の子供にも恵まれ、職場での酒の付き合いも月一回にして家で飲むことにしました。
修業時代から十五年過ぎた頃、実家の調布に帰ってきて両親と「和菓子製造販売業」を手伝うことになり、妻は看護師の仕事に戻り共働きの生活。子供二人は保育園にあずけ、自営業である自分が送り迎えをしていました。仕事が早めに終わると帰ってもいいと言われ、その言葉に甘え昼過ぎに帰ったこともありました。そんな時、何気に開けた冷蔵庫のビールに目が止まり何の罪悪感も気にせず飲みほし、その時のビールは美味しかった。その頃から酒に対してのコントロールが出来ず、彼女が仕事から帰ってくるまでの二時間は下地を作っていて、夕食時には晩酌、子供と風呂に入っては一杯、洗い物をしては一杯位いいだろうと勝手に思い飲んでいました。
そんな飲み方をしていて、腹水が溜まり初めての入院。一ヶ月後には退院しましたが、酒は止められず食事も食べられず衰弱していく自分に、ある日病院の許可をとり点滴を持ち帰ってきて自宅で自分の腕に針をさし、それも二本で三時間後に戻ってきては入れ替え、何とか調子は良くなりました。当時は彼女に対して何も言えず、今思うと命を救ってくたことに気づき感謝しています。
段々と口うるさく言われ始め、隠れ酒を覚え子供部屋で飲みました。そんな中で勉強、友達も来たりしていたんだなあと。酒臭かったにちがいありません。父親として失格でした。そんな状況の中でした。妻に離婚届を自分の前に出され、ここまで深刻な状況だとは感じず「正直夢であってほしい」。妻の口からは、私を「自由にして」「介抱して」と別れてとは言わず、今想えば酒の他に彼女の生活リズムを壊してしまい、仕事から帰ってきても心落ち着く場所がなかったのかと。精神的にやせ細っていく姿に声をかけられず、何度も頭を下げましたが、時すでに遅し。
それから何年か経ち、断酒会にお世話になって「償いの気持ち」「生きる事」を気づかされ、子供に対し父親として生き続け、今春大学生になる長男と高二になる娘、今でも二人とは逢っており、生きて成長を見守りたい気持ちと、彼女に対しても仕事と家庭の両面で、改めて感謝の思いでいっぱいです。
「命の大切さ」を心に思い、これからも飲まない生活を継続し、毎日を大切に生きていきたいと思いますので、ご指導のほど、宜しくお願いします。