酒害体験談

アルコール依存症の家族は、共依存

発表者 O・Y
所属 中野断酒会・家族

 私の家は、主人と主人の母の三人家族です。お互いに再婚同士。主人の仕事は舞踊家でした。舞台作品の依頼があると、振り付け、舞台構成を完成させます。作品のテープが届くと、擦り切れるほど聞き、徹夜して仕事が始まり音楽に没頭する毎日が続きます。中途半端が出来る性格ではなく、出来る限りの最高のものを創りたいと言うのです。稽古に入ると作品創りに没頭しアドレナリン全開状態で、自ら踊りだし、気力・体力の限界をこえていました。稽古中は水・食事は殆どとらず、仕事が完成すると眠るために飲むと言って、一杯、二杯・・ガクガクと気力・体力を失った体は、あっという間に連続飲酒になりました。
 そのうち体に異変を感じてきます。急性膵炎で苦しんだことのある主人は、背中が痛み出すと入院したいと言い出し、入退院を繰り返していました。点滴はよく効いて二、三日で元気になり、とても楽しそうでした。でも、とうとう病院から入院を断られ、頼れるのは精神病院だけでした。榎本クリニックの榎本先生は、主人の病気はアルコール依存症だと、そして家族の共依存だと言うのです。さらに、病気を治すには主人の仕事も辞めなければとまで言いました。
 「えっ。何で?」信じられないと心の中で叫びました。ただ点滴をして睡眠剤を出してくれるだけでいい、元気にさえなれば私なら主人を仕事に復帰させられる。そう思っていました。それまで辛抱して頑張ろうと心に決めました。それはただの思い込みと、思い上がりで、その時は本当にそう思って疑いもしませんでした。
 しかし、この後も主人のお酒は変わりませんでした。母には「主人を連れて出て行け」と怒鳴られ、土日には主人の仕事に付き添い。私は自分の仕事もあり、疲れ果ててしましました。そんな時、母が心臓手術をすることになり、病院に付き添うことになりましたが、当日の朝、急に体調不良となり体が動きません。結局、酒の入った主人が付き添い無事手術は終えました。私は検査の結果、子宮筋腫で即入院、子宮全摘となりました。早く退院して家に帰らなくてはと焦りました。二週間弱で退院。「只今」と玄関を開けると母が、「お帰りなさい。大変だったわね。あんたも可哀そうだね」。そう言われ一瞬嬉しくなりましたが、その次に「もう、女じゃなくなったのだね」と信じられないような一言。主人も私の帰りを待っていたかのように連続飲酒。この時が一番辛かった。
 術後で体も思うようにならず、母からは暴力的な言葉、誰かに相談したいけど、バツイチ。実家にも行けず、惨めさと情けなさとで何処かに行ってしまいたかった。思い切り眠りたいと思って主人の睡眠剤をありったけ飲んでしまいました。ここから消えたかった。ところが目が覚めて、彷徨のすえ足が縺れて一気に階段の下まで落下。尾てい骨と右足首にひびが入ってしまいました。それから毎日腫れた足を引き摺り、五分ほどの職場に一時間を掛けて通勤しました。
 それからも主人は飲み続けました。私達家族はどんどん心が壊れていきました。私は主人より私に罵声を浴びせる母を恨み、母は主人の鬱憤を私に大声を出すことで正気を保っているようでした。とうとう主人がわずかな酒にも体が受け付けず、転倒などを繰り返すようになりました。私も疲れ果てて、家に帰るのがイヤだな、また母が・・。ところが、主人から「病院に行きたい。でも、成増厚生病院はいやだ。K会長に電話をして三鷹周辺の病院を聞いてくれ」と言われました。半信半疑で次の日に井の頭病院に行きました。ところが、これが最後の精神病院で今日まで来るとは夢にも思いませんでした。入院して二週間後、主治医とケースワーカー・本人・家族の三者面談があり、主治医に「これからどうしますか?」と言われて私が話そうとすると、「奥さんはだまっていて下さい。ご主人に聞いているのです」。すると主人は「このまま退院します」そう言っていました。私は、ああ!!また始まる、そう思いました。入院中に中野断酒会のS・Mさんが、ご自身の経験からカップ麺を差し入れに来て下さいました。主人も私もとても嬉しかった。久しぶりに人の温かさを感じました。
 今落ち着いて考えると、榎本先生の言われた通りになりました。主人は仕事を辞め、二年間自宅で家事をしていました。二年後ヘルパーの資格を取得して仕事に就きました。私も断酒会に通って、自らの間違いに気付くことが出来ました。