酒害体験談

人生の切符をくれた断酒会

発表者 K・Y
所属 品川断酒会・家族

 高校を卒業し東京に憧れて就職、親から離れての生活、夢一杯でした。その中で主人と知り合い、付き合いが始まります。二人で夕飯を食べ、その時主人はビールを飲み、食後散歩している時、話のくい違いで私を殴ったのです。私はそれを勘違いするのです。私のことが好きだから殴ったと思うのです。今でもその場所に行く機会が度々あります。あの時、アルコール依存症と気がついていれば・・・。と思う私がいます。 
 私にない全ての物を持っている主人にひかれ、親の反対を押し切り借金の結婚式でした。新婚当時から飲んでは暴れ、会社の帰りに酒を飲み、帰宅しても酒を要求、外で飲んできたから家では飲まないで欲しいと言うと、外と家では違うと言い飲み、話が主人の思う様な答えが返ってこないと、私に暴力が始まります。その中で主人は組合活動をして仕事の帰りに飲むことが多くなり、暴力を振るい私の顔の青タンを見ると反省し、三〜四カ月断酒が始まり酒を飲まない主人はとても優しく、その優しさに騙されていました。 
 酒が一日一杯から始まり酒乱になるのはあっという間でした。会社出勤の朝、「今日は早く帰ってね」と言うと、「わかった」という言葉を信じ主人の帰宅を待つのですが、また裏切ります。そして帰宅するなりの暴力、悲しくて外をあてもなく歩き、外で一夜を過ごした時も度々でした。 
不安を抱えての妊娠、妊娠八カ月の時、組合活動で暴力を振るったということで逮捕、待っていても警察から帰ってこない。私は不安になり実家で子供を産むことになります。身重の私に両親は主人のことは一切口に出しませんでした。私も両親には一言も言いませんでした。両親は全て知っていたのです。子供が生まれ東京で三人の生活が始まりました。生活苦より私は内職をする様になり、機嫌の良い時などは内職を手伝い、不機嫌の時や酒が入っている時などは、俺にあてつけで内職をしているのかと注文の品物を壊すことが度々で、子供が私といると笑顔があるのに、父親が帰ってくると笑顔が消える様になり、これではいけないと思い、保育園に入れ私はパートで働きました。私は自立してない自分…、悲しく思い自立をすることにしました。チャンスは四年後にきました。役所に入区出来たのです。一歩前進。飲んで暴れ、近所での暴力、近所に対して恥ずかしくまた私の変なプライドで二十年間で七回も引越しました。 
二十二年前に私に暴力を振るったのが断酒会に入るきっかけです。兄の家で逃げて行った時、兄はこれからの四十年、自分と子供のため生きなさい、怯えの生活から脱皮しなさい、お前も自立しているのだから、と言われ、離婚を考えたのです。これだけ暴力を振るわれているのだから警察に行き相談しようと思い、警察に相談すると、「君はよく耐えているね」と言われ、酒で困っているなら「保健所に行ってみたら」と言われました。その足で保健所に行き、岩崎主任との出逢い、先生は「別れたいなら別れる方法がある、一緒にいたいならその方法もある」と言われ、私は「酒を飲まない主人はとてもいい人です、飲まない生活が私達にあったら教えて欲しい」と聞くと、「断酒会です」と私は初めて聞く言葉、貴女も大分病んでいるから今晩から断酒会の方に行き、勉強しなさいと言われ、何がなんだか分からず家に帰りました。 
 主人には「私か酒かどちらでもよいから選ぶ様に」と言いましたが、酒を止めるだけの言葉しか返ってきません。私は「酒を止める言葉は何度も聞いている、私は貴方を信ずるものが欲しい」と言い、頑張って保健所に行く約束をします。いやいや保健所に行く約束をしましたが、保健所で岩崎先生と喧嘩して帰ってくる始末。 
 私の断酒会回りがスタートしますが、家で待っている主人が心配で、私と約束しましたが私が断酒会に行っている時、酒を飲むのではないか心穏かではありませんでした。会の方に相談したら貴女が居ても居なくても飲む時は飲む、今の貴女は断酒会に出て心穏かにすることと言われました。二カ月位一人で回った頃、主人がひょっこり顔を出したのです。家族の方にチャンスよ、これが第一歩、大事にしなさいと言われ、チャンスは自分で掴むもの、大勢入会する中で継続出来るのはほんの一握り、頑張りなさいと言われ、私は一握りになろうと思いました。 
 十月に断酒二十二年の誕生、私達夫婦には『努力のたまもの』の断酒があります。これからは二人で健康に気をつけ仲良く生涯断酒協力でいきます。