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断酒会に入会してから四年という月日が流れ、自分自身ようやく落ち着いてきたと感じています。 私の事、夫の事を少し振り返ってみたいと思います。
私は、秋田の高校を卒業後上京し東京の短大に進み、卒業後は栄養士の仕事に就きました。就職し一年位たった頃、銀行の支店の食堂をやってみないかという話がありやることになりました。献立作成、調理とお手伝いしてくれる方と二人でスタートしました。今まで長年直営でやっていた方の後でしたので、徐々に風当りが強くなり総務の女性から色々言われる様になり、段々追い詰められ疲れ果ててしまい円形脱毛症になってしまいました。もう二十五年以上も前のことですが、私の人生で一番辛い出来事だったと思います。
その頃、私の気持ちの中には違う職場に移って“仕事を頑張ろう”という気持ちはあまりなく、いい人がいたら結婚しようという気持ちの方が大きく「仕事から逃げたい」という気持ちがどこかにあったと思います。精神的に何かに依存したいということだったのでしょうか。たまたまお酒に逃げなかっただけのことではなかったのか、とも思う様になりました。
新しい職場に移りそこで出会ったのが夫でした。当時七十キロちょっと位はあり、ある銀行の本店の食堂で、私の叔父がその銀行の行員であったので健康診断の結果を調べてくれた様で、成人病があるらしいという情報が入りました。そこで考え直していたら私の別の人生があったのかもしれません。夫三十三歳、私二十三歳の結婚でした。
夫の体験談によると、すでに二十代から手が震えていたそうですが、依存症進行中でありまだまだ飲める時期だったと思います。私の父もかなりの酒豪でした。秋田という土地柄もあったと思いますが、そんな父を見て育ったせいか男はバリバリ仕事をして、そのご褒美として酒を飲む、というのが私の中に当り前の様にありました。時には飲み過ぎてしまうこともあるだろうと、成人病があるからと言われても、さほど気にならなかったと思います。
私は三人兄弟の長女で、夫は姉二人がいる三番目の長男、つまり末っ子でした。結婚当初、「家のことは任せる」とよく言われた記憶があります。長女で育った私は、何かやってあげることには何も抵抗がなかったし、“任せる”と言われると張り切って頑張っていたと思います。末っ子の夫にしてみても、結婚しても身の回りの世話をしてくれる人はいるし、自分がしっかりしなくてはと思わなくても良かったのかもしれません。家庭の中での夫のやるべき仕事を取り上げていく始まりだったのかもしれません。そして、この関係がさらにアルコール依存症を進行させることになってしまうとは、夢にも思っていませんでした。アルコール依存症の夫婦は、見えない糸で引き合ってしまうという話しを聞いたことがあります。まさに私達が典型的な例なのではないでしょうか?
結婚して五年後、大学病院に最初の入院をしました。お酒が原因だったと思います。長女四歳、次女二歳でした。退院後は仕事に戻り普通に飲むという生活に戻っていきました。この頃、夫の仕事の面では支店の食堂の店長という話があり、色々なプレッシャーから、徐々に精神的に追い詰められていく状態だったと思います。私は子育てに追われ、夜子供を寝かし付けにいくと一緒に寝てしまうこともしょっちゅうでした。夫の話を聞く余裕もなかったとのだと思います。
一度目の入院から四年後、二度目の内科入院となりました。「体を治したいから入院させて欲しい」と言う夫は、朝から酒を飲み体がゆうことをきかない苦しい状態だったと思います。病院からは「アルコール依存症のQ&A」という本をしっかりと渡されていました。私はその入院の当日、夫からその本を無言で渡され、人目を気にしながら待合室でパラパラ読んだことを覚えています。でも直ぐに夫に返してしまいました。私は「アル中」という言葉も「アルコール依存症」という病気も知らず、その本を読んでも夫がその病気なんだとはピンときませんでした。でも聞いてしまったら何か大変なことが起こってしまう様な恐さがあったのかもしれません。入院中、夫から自分の病気の話もありませんでした。夫婦で否認し完全に蓋をしてしまったのです。認めないということは、恐ろしいことだとつくづく思います。そして、この入院が一回目の底つきだったことは、それから十一年後、断酒会に入会後に知ることになりました。
お酒にまつわる問題は徐々に増えていきました。飲酒運転、失禁、職場での飲酒、運動会ではシートの上で大の字で寝たり、一通りのことはやっています。いつも不機嫌で顔色が悪く、そんな人なんだと思っていました。夫は暴力や暴言はなく、飲んでしまえば寝てしまうおとなしい酒飲みでした。酒量が増えるにつれ私がお酒を買うこともしなくなりました。よく飲んでいたのが焼酎でした。なんとか量を抑えようと思い、大きなボトルから徐々にビンを変え、最後は夫が仕事返りに買ってくる様になりました。飲酒欲求を抑えきれなかったか、必ず一口、口をつけてくる様になりました。夫が帰ってくると、「今日はお酒を買ってきたんだろうか?口をつけていないのか?庭のどこかに隠していないだろうか?監視する様になっていきました。なんとか飲ませない様に私も必死でした。夫が買ってきたお酒をどこかに隠してしまおうと思い、色々な所に隠しましたが、夫も負けてはいません。必死に探し出して飲んでいたと思います。お酒をはさんで私は飲ませない様に隠し、夫は飲むために隠し、お互い隠すことに一生懸命となっていました。隠す時のあのドキドキ感、スリルがあってかなり興奮していたと今でも覚えています。
夫は職場から勧められ「それぞれの人生」という映画を見に行ったことがあります。アルコール依存症の方の映画です。私も一緒に見に行く様に言われましたが、子供が小さいからと断りました。どうして一緒に見に行かなければいけないの?という気持ちがあったと思います。その映画の本を買ってきていて、何年もの間本棚に飾られていました。時々部屋を片付ける時に目に止まるのですが、パラパラと目は通すものの夫とは違うと思っていました。
平成十二年、私はパソコンを始めました。家でパソコンを使って仕事が出来たらいいなというのがきっかけでした。徐々に進行してくる夫のお酒の飲み方がやっぱりおかしいと感じ始め、インターネットで調べる様になりました。ある家族の方が書かれていたページを見て愕然としました。私と全く同じ行動をし、それはやってはいけないことだと書かれていました。アルコール依存症という病気であること、家族は手を放さなければいけないことを知りました。何度も何度もパソコンを開いてみたり、私がまず認めるのにも時間がかかりました。一つの小さな行動をおこすことも大変なことでした。断酒会に初めて電話したのが平成十五年でした。平成十二年には断酒会の存在は知っていましたが、それから三年もたっていました。
断酒会へ初めて出席したのは平成十七年の新生研修会でした。小さな会場へ行っても絶対自分の話はしなくて、皆さんの話を聞くだけでいい所と思い参加しました。少し前から行ってみようと夫を誘ってはいたものの、「一人でやめる」この一点ばりでした。でもその日はしぶしぶながらも行ってくれて、「家にも未来はある」と思えました。研修会の休憩の時に、Sさん、Mさんと話をさせて頂きました。病院も紹介して頂きましたが、行くことはありませんでした。
それから二ヵ月後、朝からお酒を飲む様になりました。これから仕事に行こうとゆうのに朝から酔っ払っている。どうしていいのかわかりませんでした。これで仕事は首だ。元気で家に帰ってくるのだろうか?飲酒運転で人をひいてしまうのではないか?不安だらけでした。
平成十七年五月、私は初めて白菊婦人会へ出席しました。実はその前に一度部屋の前までは行っているのですが、ドアを開けられず帰ってきてしまいました。この扉の向こうで何をやっているんだろうと思うと、何だかとても恐くて扉を開けて入る勇気がありませんでした。「何のために来たの?」と帰り道で自分に問いかけ、会長のFさんへ電話し次回行く約束をしました。「よくいらっしゃいました」と優しく声を掛けて頂きました。妙に明るい印象が不思議な感覚でした。何回目かの会で多くの皆さんが「自分のために会に出席したいと思う」という話をされていました。その言葉を聞くたびに私の気持ちが揺さぶられ、会が終わるまで泣いていたことがありました。自分のためという意味もわからず心の中で反撥していたのだと思います。
夏には夫の状態がさらに悪化し、会社も休む様になり体重も激減しました。白菊へ出席する様になりまだ間もなかったのですが、皆さんからの情報を得て成増厚生病院へ連絡することが出来ました。最初の面談で「困っていることは何ですか?」という質問がありました。私の心の中では「私は特に困っていない」と思いました。少ししてから、「主人の体が心配です」と答えた記憶があります。夫のことではなく、あなたはどうなの?という質問だったと思いますが、自分には目が向いていない答えだったと思います。
ここからはトントン拍子にことは進みました。二度目の底つきに到った夫は、自分で近くの内科へ行き入院、そのまま成増へ入院しようやくお酒を切ることが出来ました。結婚して二十年目のことでした。
結婚して二十年間、内科入院、底つき、映画を見たこと、職場ではアルコール依存症であることを知っていたことなど、私達がこの病気に向き合うチャンスは沢山ありました。でもそれに蓋をし続け、向き合うことを避けてきました。
私はいつも沢山のことを抱え込んで生きてきたなーと気付くことが出来ました。今まで夫のお酒のこと、家のことなど、親や 兄弟に相談したことは一度もありませんでした。友達にもありませんでした。誰にも言えない、絶対に言うもんかとさえ思っていました。友達からは相談されることが多く、どうゆう訳か自分のことのようにしっかりと相談に乗ってしまう私でした。だからといって私の悩みは打ち明けられず、ずっと抱えっぱなしでした。そんなことをしているのですから、疲れてしまうのは当然のことだったと今は思えます。
成増厚生病院での最初の質問「困っているのは何ですか?」、その問いかけから自分に目を向けること、自分と向かい合うことを知りました。夫のアルコール依存症を私も一緒に進行させたようなものですから、私も同じような病気なんだと理解出来ます。
断酒会に入会し沢山の方に出合い、多くの体験談を聞かせて頂き、温かい言葉をかけて頂き、今日まで来ることが出来たと思っています。本当にありがとうございます。
長い間、自分の気持ちもよくわからず、辛いこともそれが当り前だと思っていましたが、断酒会に入会することで、つっかえていた物がストーンと落ちて、体がとても軽くなったなと感じています。今まで感じたことのない感覚です。家でも落ち着いた普通の生活を送ることができ、ようやく普通の家族になれたと思います。
これからは、人のためでなく「私の人生を生きる」そして、皆さんと共に「幸せになる」ことを目標として、1日1日頑張っていきたいと思います。また、この輪から離れることなく、夫と共に断酒会の皆様にお世話になっていきたいと思います。これからも、宜しくお願いします。