酒害体験談

諸先輩の指導を得てアルコール依存症からの回復

発表者 M・M
所属 豊島断酒会

 五月の本部例会で、平成十一年に断酒会に入会してから十二段目のお免状を頂き有難う御座います。私にとって 断酒会に入会するのは二回目のことでした。以前平成三年の頃、一度断酒会に入会したことが有りました。その頃 は、それまで働いていたアルコールを飲む機会の多い営業職を止め、一般職に変わり、断酒会に入会した訳ですが 、その時はもう既に故人になられた練馬断酒会の角田さんや、現在でも豊島断酒会で頑張っておられる吉野先輩等 、色々な方々のご指導が有ったにも拘わらず、酒の魅力に勝てず、断酒会を数年で中断してしまい、それまでに頂 いた全ての免状を返却させて頂きました。それから暫く酒を飲みながらもバイク便のライダーやプロパンガスの充 填士をしながら、夜は榎本クリニックに通院する生活が続きました。
 よく断酒会では借金しながらでもお酒を飲んだというお話を聞きますが、私の場合は自分が営業職のトップとし て、また社用族として会社の金でお酒を大量に飲んだ代償としてアルコール依存症になったのだと思います。です から一回目に断酒会に入会した時は、すんなりとお酒は止められなかった。
 私が営業職を止めた四十代半ばにはγGTPは二五○○を超え、体全体が茶黄色になり、腹には腹水がタップリ たまり、自分の足元さえ見ることが出来なかった。私は昔より金銭欲が強く、家族に酒の上で経済的不自由を掛け たことは無いと、自信を持って言えますが、飲酒運転や怪我などで心配を掛けたことは多々有りました。
 私と酒との関わり、非常に長い期間に渡ります。私が初めて酒を口にしてブラックアウトに陥ったのは七歳の頃 、父親の実家のある長野県に行った時、私は大人たちに勧められるままに甘口の赤球ポートワインを一本半程飲ん だそうです。私は記憶を完全に失い三日間も眠り続けたそうです。自分の意思でお酒を飲むようになったのは十五 歳の頃、米軍居住地PXのウイスキーなどを闇で居住地外に持ち出し商売をし、傍らそれらの味を覚えた。大学は バンカラで有名な拓殖大学でした。当時、拓大には警察官や自衛官の実習生(勿論、成人でした)が多く、彼らと 共に闇鍋をつつきながら酒を飲む機会が有りました。大学を卒業してからは営業職の連続、そしてアルコール漬け の毎日でした。
 私が二回目断酒会に入るきっかけは、私と女房が豊島断酒会に行った際、板橋断酒会の会長さんご夫妻より強く 勧められ入会を決意しました。それからは既に故人になられた江東の芝本会長ご夫妻や江東断酒会の諸先輩のご指 導を受けお酒は止まっています。おそらく自分一人だけでは酒は止まらなかったでしょう。皆さん、有難う御座い ます。