酒害体験談

断酒四段の御免状を頂いた以前の人生と今後の人生設計

発表者 N・M
所属 世田谷断酒会

 私は六月三十日の本部例会にて、四枚目の免状を頂きました。私の家系は祖父と父親と私とお酒が大好きな 家系で、唯一祖父と父親と異なる点はお酒を上手に飲めないことでした。
私は高校時代にバンドを組んでいて、ライブの後は必ず打ち上げがあり、その時から仲間よりもかなりお酒 のペースが速く、そしてチャンポン飲みで必ず潰れていました。ただ当時は学生でしたので、毎日連続飲酒は なく、ただライブの時だけ大量飲酒をしていました。
その後就職してからお酒との付き合いが始まりました。 最初に就職したのは十九歳の時で、仲間はバイト の大学生ばかりでしたが皆お酒が大好きで勤務が終ると必ず飲みに繰り出していました。私は正社員でしたの で日曜以外は毎日出勤していたので、ほぼ毎日飲んでいました。勿論日曜日も飲んでいましたが当時は夜しか 飲酒はしていませんでした。
お酒に対しておかしくなり出したのは二度目の就職からでした。その会社は七年間勤めていましたが、社員 殆どが酒好きで宴会の後は必ず三次会までありました。ただその中でも私は皆から笊と呼ばれるほど飲んでい ました。その後二十七歳の頃には所謂ランチビールが定番になり昼でも飲むようになっていきました。その時 に精神的にかなりショックを受けたことにより、精神面で日常生活が上手くいかず朝からお酒を飲みながら気 分を紛らしていましたが、次第に不安になり近隣の精神神経科に足を運んだらパニック障害だと宣告されまし た。当初は処方して頂いた安定剤でその場は凌いでいたのですが、やはり既にお酒の魔力に嵌っていて、薬の 服用と飲酒を繰り返していました。その結果服用薬は全く飲まずに、朝から夜まで連続飲酒の日々がスタート しました。もう既にその頃には職場には朝から飲酒して通勤し車を使用しながら外廻りの仕事でしたので、昼 でも人目を気にせずにコンビニでお酒を購入しながらひたすらお酒を飲んでいました。幸いだったのは飲酒し ていることが社内に知られていなかった為、退職するまで毎日朝から連続飲酒を続けていました。そんな中三 十歳を迎える頃に幻聴幻覚やアルコール性癲癇が始まり、あまりのお酒の酷さに両親も悩んで、両親が探した アルコール専門病院での受診が始まりました。しかし私はアルコール依存症とは認めておらず、お酒を抜いて 受診するように言われていましたが、結局飲酒した為にその場は帰されて一週間後に再度アルコールを抜いて 受診しました。結果アルコール依存症の為入院を勧められましたが、あくまでも任意入院なので自分で決断し なければならなかったのですが、三ヶ月ではなく二週間の解毒入院を選択しました。退院してからは職場復帰 し約一年半は断酒が継続出来たのですが、頻繁に行われる会社での宴会で結局グラスビールに手を出してしま い、今度は両親に隠れて飲酒を始めて結局連続飲酒になり再入院になりました。その頃に両親が私のアルコー ルの酷さに悩み断酒会を知り両親が入会しました。私は仕事の兼ね合いがあり一ヶ月半で退院して断酒会に通 いました。しかし心の中ではまだ断酒会への偏見があり会では綺麗ごとを発言してその場凌ぎの正直嫌々な気 持ちで会に参加していました。
その後も隠れ酒や連続飲酒が治まらずに今度は三ヶ月間きちんと入院をして福 祉のお世話になり、隠れ酒が嫌になり両親と縁を切る形で家を出て飲酒の為に独り暮らしを始めました。その 後は毎日朝から晩までひたすら福祉のお金で飲酒を続けていましたが、最終的には福祉を切られ両親にも勘当 されてホームレス生活を始めました。しかしホームレスになってもお酒だけは飲みたくてボランティアの人に 援助してもらいながら飲酒をしたり、万引きをしてまでお酒を求めていました。その頃は何度も警察のお世話 になっていました。ホームレスを始めたのが夏前だったので当初は近くの公園の水飲み場で体を洗ったりして いましたが、やがて秋が来て冬になり寒さとアルコールの麻痺で洗髪等は一切行わずに汚れた体で夜は近くの 二十四時間営業のファーストフード店で暖をとっていましたが、あまりの汚さに店を出入り禁止になり凍える ような寒さの中、ただ体力だけが奪われていきました。しかし後二、三日でおそらく体力の限界で死が待って いたと思いますが、両親が私の居場所を探し出してくれて命が助かりました。
その後は自宅に戻りましたが数ヶ月は体力もなくトイレもまともに行けずに垂れ流しをしていました。そし てようやく体力が回復した頃に山梨県の叔父の養鶏場の手伝いの話が提案されて、まともな暮らしを目指す為 、住み込みで早朝から夕方まで養鶏場の仕事をこなしていました。幸いそこは村なので近くに飲み屋等はなく 代わりにコンビニがありお酒も販売していましたが、仕事の疲れや叔父の厳しい指導の下、お酒に手を出すこ とはありませんでした。そして精神的にかなり鍛えられてお酒に対して決着がつき、叔父からももう大丈夫だ ろうとお墨付きをもらい昨年の七月に東京に帰って来ました。
東京に戻ってからは誰から言われた訳でもなく直ぐに先ずは断酒会に出ようと思い、世田谷断酒会の先輩に お願いして色んな会場に足を運ばせてもらいました。そして外来も自分から受診を 再開し、昼間の暇な時間は作業所に行くこと決めて、所謂三本柱を守りながら日中は作業所、夜は例会廻りと ゆう生活を半年続けていました。そして作業所から私は早期の社会復帰が認められると言われて、元々仕事を していたIT会社への再就職も望んでいましたので、今年の二月から六月までコンピューターの職業訓練学校 に通わせてもらいました。その間は朝から夕方まで学校に夜は例会参加をして心から完全にアルコールを捨て ることが出来ました。お陰様で六月十三日に無事に学校も卒業して直ぐに就職活動に入りました。ただ、今年 の四月に作業所の経営方針が変わってしまい、私は上級者コースの訓練学校を修了したので、NPOや作業所 の所長から生活訓練の必要はないと判断されて、七月六日現在で作業所を辞めることになりました。ただ現在 かなりの就職難で四年生の大卒者でも中々就職が難しい中、私はアルコール依存症をオープンにして就職活動 をしているので、人の倍以上の競争率です。でもこの三年間で培ってきた精神力と持ち前のポジティブシンキ ングで何事に対しても、焦らず・慌てず・諦めずをモットーにして生きているので、現実では書類選考の時点 でかなりの会社から不採用になり、実際に面接までこぎ着けても良い結果は生まれておりませんが、そのモッ トーや私には今後の夢や目標があり、その後のビジョンまで真剣に人生設計を考えております。正直もうお酒 のない素晴らしく楽しい人生を味わってしまったので、この楽しい人生を知った以上、過去の過ちを二度と繰 り返すことのないように断酒道に精進していきたいです。今まで散々失ってきた信頼関係や友人達との時間は もう取り戻すことは出来ませんが、現在得てきた信頼関係・仲間・友人達とは一生関わっていきたいので、ア ルコール依存症は一生の病気ですが、恐れずにこれからも徹底して会に参加して永遠断酒を成し遂げたいです 。からやりたいことや夢や希望や目標、そして断酒例会がある限り怖いものはありません。これからも一日断 酒で頑張ります。