酒害体験談

仲間とともに

発表者 O・K
所属 千代田断酒会

 新人類」といった言葉を聞いた時は驚きました。私が今の会社に入社したのはバブルに入る昭和六十三年でした。 当時は酒に強いことは褒め言葉であったと思います。体質的に飲めない人がいても乾杯は必ず行う。それが当時の常 識だったと思います。飲めるのに飲まない人は私の感覚では信じられませんでした。しかし、バブルがはじけた頃か ら生活がおかしくなっていきました。コンビニエンスストアで酒の販売がされるようになり深夜での酒の購入が出来 るようになりました。仕事帰りに弁当と一緒に酒を買うようになりました。初めは弁当と一緒に酒を購入する程度で したが、社内の人間関係の問題と仕事のストレスから酒量が増えていき、購入する酒の量も多くなりました。当時、 私が酒を購入していたコンビニエンスストアでは、その頃飲んでいた缶チューハイの販売レーンが一本から二本、四 本と増えました。私は義務感?から夜に飲めないくらいの酒を購入していました。この頃から手の震えがありました 。アルコール中毒かな?と思いましたが、当時の私のアルコール中毒への偏見は高く認めることが出来ませんでした 。この頃にアメリカで同時多発テロがあり、客先での打合せで入門票を書かなければならなくなりました。酒を飲む と震えが止まることを発見し、手の震えを止めるため朝から飲酒するようになり病気は進行しました。
 平成十五年には専門医にかかるようになりましたが、アルコール依存症の怖さは分からないでいました。抗酒剤を 飲まない日は「酒が飲める日」と勝手に思っていました。病院でのミーティングにも参加しましたが節酒の方も参加 していたことから断酒には至りませんでした。医師からは「酒を飲んではいけませんよ」と言われ抗酒剤を処方され ておりましたが酒は止まりません。次の診察で、正直に「飲みました」と話したところ「酒を飲んではいけないと話 したよね、今度飲んだら入院ですよ」と言われましたが、抗酒剤を飲まない日は酒を飲む日と思っている私には効果 がありませんでした。当然、病院には行けなくなりました。同居していた叔母が入院して衰弱していく姿を見て酒量 は増加しました。叔母の入院(死亡)を理由に、仕事でのストレスから酒に逃げていたと思います。酒を飲んでも仕 事は進みません。仕事が溜まり進退に困りました。逃げ場を病院としました。個人的には内臓疾患での入院を希望し ていましたが、アルコール精神科から内科への入院は難しかったため、成増厚生病院への入院となりました。入院し て分かったことが幾つかあります。
・アルコール依存症の人が多くいること
・回復している人も多くいること
・苦しんでいる仲間がいること
私は、まだ自分がアルコール依存症と一○○%認めてはいませんが、アルコール依存症かどうかは問題にはしてい ません。例会に出席して、仲間に支えられていることで今まで生活しております。他人からは「意志が弱いからだ」 と言われ同情されない病気ですが、仲間がいることを知ったことが大きな励みになっています。歩くことしか出来ま せんが(この頃はさぼり気味ですが)、どこかの例会場で見かけたら声を掛けて頂ければ幸いです。今は、仲間がい ること、仲間が気に掛けて頂けていると思うことが私の断酒に繋がっていると確信しています。